アドマン(元)のブログ「広告会社~バーチャルとリアルの狭間で」

名古屋の広告会社に働いていた元アドマンのブログ。広告とインターネットに携わる男が、時代の転換期で日々感じること、気づくこと、体験したこと、また、読んだ本や見た映画の感想などを思いのままに書き綴ります。

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「noma(ノーマ)はなぜ世界一のレストランなのか?」ドキュメンタリー映画「ノーマ東京」を観て。

デンマークのコペンハーゲンにあり、世界のベストレストラン50で2010年から堂々3年連続一位に輝いたレストラン「noma(ノーマ)」。ちなみに、nomaとはデンマーク語で「nordisk」(北欧の)と「mad」(料理)を組み合わせた造語のようだ。

そのノーマが本店を休店して、スタッフ総出で東京のマンダリンホテル東京に期間限定出店した際のドキュメンタリー映画「ノーマ東京〜世界一のレストランが日本にやってきた」を観た。

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何が凄いかと言って、一にも二にも、天才シェフと謳われるオーナーシェフ、レネ・レゼビのこだわり。
時間がないからとか、食材の調達が難しいからとか、そんな言い訳(わかっているのでスタッフも言い訳をしないが)は一切通用しない。あるのは、ただただその料理が独創的であるかどうか。独創性という意味においては、本店での人気レシピすら一切認めない。とにかく今までに体験したことのない、初めての味を徹底的にスタッフに要求する。そのために常に追い込まれているスタッフが悩む様子は胸が痛むが、それはそれで見ごたえが(笑)

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イチロー然り、天才とは99%の努力と1%のひらめきと言われるが、まさにそれを地でいく。
ある分野でいちばんになるには、その分野でいちばん時間を費やしたかどうか、世界ナンバーワンの称号は、当たり前のことが当たり前に行われた結果であるとあらためて痛感した。

この映画の中でもっとも印象に残った言葉。
「我々が求めるのは、“完璧な完成”ではなく、“完璧な未完成”だ。(少し表現は違ったかもしれない)」
この“完璧な未完成”という言葉に、レネ・レゼビ、ノーマのすべてが凝縮されているのではないだろうか。

もうひとつ強く印象に残ったのは、ノーマのコンセプトそのものであるが、日本の出店においては、すべて日本食材を使うということ。
そのためにレネとスタッフは日本全国を実際に歩き、自身の目で確かめ、自身の下で味わって食材を決めていること。一本一本味が違う桂皮(ニッキ)の木をちぎって噛んで確かめて様子は象徴的だった。日本人シェフにはいささか失礼にあたるが、日本人以上に日本の食材にこだわっていることがなにより驚きである。
いささか余談ではあるが、築地のシーンでは案内役としてかの山本益博さん、小野次郎さんも登場する。その前に観た「築地ワンダーランド」でも両者が登場したのは偶然ではないだろう。世界にもその名が響いている証と推測する。

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築地ワンダーランドと同様、この「ノーマ東京」も外国人監督。
外国人が取ると、なぜこうも日本が魅力的にスタイリッシュに映るのか?そのあたりにまだ気づいていない地域創生のヒントもあるのではないか、そんな風にも感じた次第。

「ノーマ」を観ていない私がいうのも何であるが、とにもかくにも「ノーマ東京」、なかなか見ごたえのあるドキュメンタリー映画だった。

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「オオカミ少女の憂鬱」を観て。

先週土曜日のことになるが、名駅西のシネマスコーレで有馬監督作品「オオカミ少女の憂鬱」を鑑賞した。


斉藤和義の「歌うたいのバラッド」という歌がある。

歌うことでしか愛を伝える術を知らない、不器用なほど純粋な歌うたいの話だ。

映画を観終わったあと、なぜかこの歌を思い出した。


映画の主人公、小上優子。

日常的に嘘をつく少女である。
しかしながら嘘であることが当たり前のように見破られてしまう、ある意味、歌うたいより不器用な少女だ。
何せ嘘をつくことでしか自身の存在を確認できない。不器用ゆえに、上手く生きられないのである。


そんな少女が恋をした。
言うまでもなく、結果は明らかだろう。


世の中をスイスイと泳いで行く器用な人間がいる一方で、生きることにさえ汲々としている人たちもいる。

何が嘘で何が真実か。

何が悪で何が正義か。

見る方向によって、180度変わる。まるでコインの裏表のように。

そんな世の中にあって、信じられるものとは何だろうかと、問いかけられているような気がした。

歌うたいは愛を歌う。
オオカミ少女は嘘を語る。
愛おしいほどまっすぐに。

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その時、できませんと言えるだろうか。映画「ハンナ・アーレント」を観て。

名古屋シネマテークで映画「ハンナ・アーレント」を鑑賞した。

ハンナアーレント

昨年の岩波ホールの上映から静かなブームとなり、中高年が劇場に殺到しているという。
名古屋でも年末に上映されていたが、どうしてもタイミングが合わず見逃してしまっていた。
そんな忸怩たる思いを抱えている最中に知ったのが今回のアンコール上映である。

上映が今週金曜日まで、しかも1日1回ということもあり、予想通り本日も超満員。
前述の通り50代、60代のシニア世代の夫婦が多く押し寄せていた。

さて肝心の映画の内容だが、ドイツ系ユダヤ人の哲学者、ハンナ・アーレントという女性を描いた実話だ。

映画は1960年代初頭、ナチス親衛隊の将校で、数百万人ものユダヤ人を収容所へ移送したというアドルフ・アイヒマンが逮捕されたことから始まる。

自身も収容所体験を持つ哲学者ハンナ・アーレントは、彼の裁判を傍聴し、ニューヨーカー誌にレポートを書くわけだが、この裁判でのアイヒマンの発言を聞いたところ、実は彼が残虐な殺人鬼ではなく、ヒトラーの命令を受けて動いただけの〝平凡な人間〟なのではないだろうかと感じた。そしてアーレントは、そんな正直な想いをレポートにまとめる。
しかしながら、そのレポートは自身の想定以上の反響を呼び、世界中で大批判が巻き起こった。
勤務する大学からも追放を余儀なくされたが、そんな状況で、作品のラストに据えられた、学生に向けた信念の8分間スピーチが始まる…

アイヒマンの言葉『自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』

その言葉を聞いたアーレントはいう。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです」

極限の状況にあり命令者はかのヒトラーである。そんな状態下で果たして「できません」と言えるだろうか。
それこそが、本編で一貫して展開されるテーマなのだ。

企業不祥事が後を絶たない。不幸を背負わされ、それを誘発させるのはまさにアイヒマンのような思考を停止してしまった企業人だ。

自分がその立場に置かれたとしたら果たしてNO!と言えるか…ここにこの映画が中高年の胸を打つ理由があるようだ。

世間に媚びないどっしりとした厚みのある映画、2度3度と観たくなる、しかも観るたびに新たな発見があるだろう、
久々にそんな“名画の条件を備えた”映画に出会ったような気がしている。

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パソコンもかなわない、老スカウトマンの“耳”の力。

クリントイーストウッド主演「人生の特等席」を観た。

「地位でも権力でもお金でも手に入れることができない、人生の特等席とは」がテーマ。

人生の特等席

アメリカ大リーグの老スカウトマンを演じたイーストウッド、彼の一見枯れたように見えながら内側に熱を秘めた演技は相変わらず健在だった。

科学的データ全盛の大リーグ。
パソコンでデータ分析ができないこと自体でもスカウトマン人生の岐路に直面しているのに加え、衰えた肉体に失明の危機が襲う。老兵は静かに立ち去るのみというのが世間の常識だろう。

ところがである。彼には長いスカウト人生で培った、ボールが放つ微妙な音を聞き分けることができる独特の「耳」という財産があったのである。

キャッチャーミットに吸い込まれる時の音。バットに当たった瞬間の音。ピッチャーの指を離れる時の音。
いわゆるこうした感覚に近いものは、どんなに優れたパソコンの分析力を持ってしても比較することは不可能だろう。

現場で培われた彼のこの感覚と、幼いころからこの父に鍛えられた娘の観察力が、スカウトマンとして再び輝きを放つことになる。

この映画で学んだことはいくつもあったが、いちばんは「本物のキャリアとは歳を経るとか環境が変わるとかそんなことぐらいでは色褪せない」ということだ。

1万時間の法則というものがあり、何事も1万時間以上費やさないとプロフェッショナルにはなれないと言われるとおり、本物のキャリアとはまさにそういうものだろう。

この映画では、この老スカウトマンの「耳」がそうだ。


耳に関して言えば、私自身30年の広告業界のキャリアで少しだけ自慢できることがある。
それはCMのナレーションや音楽の微妙な差異を聞き分けられることだ。

特にナレーションは、企業や商品の代弁をする役割となるわけで、声に勢いがあるか、思いが込められているか、その少しの違いがCMそのもののパワーを大きく変えてしまうことになる。

だからこそ、ナレーション録りには妥協ができなかった。
今にして思えば、自分の世界に入り過ぎるあまり、ナレーターの皆さんにはその気持ちが伝わらず、ずいぶん不快な思いをさせていただろうと申し訳なく思う次第。

振り返ってみると、私の耳もアナログ時代から1000本を超えるラジオCMのディレクションの現場で磨かれたものだった。

今その場を離れてみて、そのキャリアをもっともっと大切にすべきだったと、ただただ自身の弱さをふがいなく思うばかり。

歳をとるとは、単に年数が経つことでなく、良い歳を積み重ねることでなければならない。キャリアも同様だ。

イーストウッドの積み重ねた人生は、この映画の老スカウトマンのように間違いなく鮮やかな年輪を刻んでいる。少しは爪の垢でも煎じて飲みたいものである。

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天才ジャズピアニストを描いたドキュメンタリー『情熱のピアニズム』を観て。

彼は天才ジャズピアニストという才能を得るのと引きかえに重度の障害というハンディキャップを背負ったのではないか。
考えれば考えるほどそう思えてしかたない、それほど彼の人生はジャズそのものだった。

猛スピードで走り抜けたわずか36年の人生。普通に考えればあまりに短い一生であることは間違いない。
しかし彼にとっては運命を受け入れ完全燃焼した結果の死だったように思える。
あらためて人生の価値を計るものは長さではなく密度であると深く考えさせられてしまった。

さて、彼の名はミシェル・ペトルチアーニ。80年代、90年代に活躍したジャズピアニストでご存じの人も多いだろう。
そんな彼の生涯を描いたドキュメンタリー映画「情熱のピアニズム」を観た。


情熱のピアニズム

全身の骨が折れた状態で生を受け、成人になっても100cmにも満たない身長、しかしながら音楽の才能と快楽を求めるそのエネルギーは健常者との比較すら無意味に思えるほど。
特に、たびたび映像に登場し印象的だったのは彼の身体にそぐわない大きな大きな手。まさに神はこの手をピアノを弾くために彼に授けたのだ。
映画を観た後、あらためて彼の残したCDアルバムを聞いてみたが、独特の強いタッチに彼の手の印象が脳裏をよぎる。

この映画は生前彼と関わりのあったミュージシャンや彼の恋人、妻たちの回想で展開される。
したがってすべてが事実であり本人達の素直な気持ちを吐露したもの。
誰もが彼の情熱に傾倒し、彼の生き方を受け入れ心から愛していたことがわかる。
もし創られた映画であれば、ここまで彼の苦悩や喜びを抱えた気持ちは伝わってこなかっただろう。
そういう意味では、ドキュメンタリー映画という手法の意義をあらためて見直した次第。
いやそれ以上に、デジタル技術でどんなものでも再現できる時代であるからこそ、より貴重に思えてくる。

映画の感想ではあるが、いつのまにかペトルチアーニの生き方についての感想になってしまう。
映画の出来不出来の意識が薄くなるのは、考えてみれば、それ自体演出の狙い通りなのかもしれない。

自らの時間が短いとわかっているからこそほとばしるエネルギーを余すこと燃焼しつくしたペトルチアーニ。
対して与えられた時間を意識することなく、目標もない毎日を過ごすわが身。果たしてこれで良いのだろうか、良いわけはない。
人生とは、幸せとは、働くとは・・・いろいろと考えさせられた映画だった。

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